旧 一ツ戸隧道 ひとつと 旧 一般国道212号
大分県中津市(山国町)
延長 48.0m  
幅員 4.50m  
竣工  1956年  

かつてこの地に遊んだ頼山陽は、「耶馬溪山天下無」とこの地を絶賞し、耶馬溪の名を世に広めた。
その耶馬溪の景勝地の一つであり、中世には城も築かれていた一ツ戸は、険しい岩峰が山国川に突き出しており、中津と日田を結ぶ日田往還の難所でもあった。

その難所には岩峰を穿って1805年(文化2年)に日田の代官羽倉権九朗と地元中摩、宮園の住民の手によって隧道が建設され、人馬の往来の便が図られたものとされている。先の頼山陽もその隧道を通り、「山腹を穿ちて道となし、又窓を穿ちて明かりを取れり、余、松明を買い入る。窓に遇うて窺えば、月の渓水にありて朗然たるを見る」という一文を残している。




隧道は明かり取りの窓を開け、長さ130mと54mの二本があったという。(噂に聞くところによると傘山隧道も江戸時代の隧道を起源にしているようなので、一本は傘山隧道のことかもしれない。)

その由緒ある一ツ戸には1980年に国道改良に伴って片側歩道つき二車線の新トンネルが建設され、古い隧道は地元の方しか知らないような廃道となっていた。

旧隧道が一部残っているらしいという情報はあったため、私も2回ほど探してみたのだが、結局見つけられずようやく2008年(平成20年)4月に「探検北九」のチョメさんや「この道をゆけば→」のてっくさんらによって再発見された。そのときのてっくさんの八面六臂の活躍はこちらから。

その旧隧道の場所は、現一ツ戸トンネルの外側、「峠は内側」「川は外側」という旧隧道を探す際の格言(今さっき作った。)どおりの位置である。そこにあることがわかってしまえば、車を運転しながらでも見つけることができるような大きな遺構であった。

耶馬溪隧道探検隊が発見した後に整備されたらしく、藪も刈り払われて内部に散乱していたという不用品もきれいに撤去されている。

探検隊によって現状が全世界に情報発信されたためかとも思ったが、直接の要因は、立命館太平洋大学(別府市)の轟博志准教授と中津市しもげ商工会が共同で作成した「日田往還中津街道の復元マップ」の完成記念ウォーキングイベントが2月はじめに開催されたことによる整備のようである。

藪が刈り払われてみると現トンネルの中摩側の旧道跡地(現在は駐車スペース)から隧道の残る旧道が国道を横断してきれいに続いているのがイメージできるほどである。あのしろさんも旧道を覗き込んで写真を撮っているが、報告がされていないということは見つけられなかったのだろう。

しかし、ガードレールの切れ目に気がつかなかったのは今から考えると不覚である。

かつては、7つあったという明り取りの窓も1箇所半を残して現トンネルに呑み込まれており、旧隧道も拡幅を受けている。

江戸に起源を持つ貴重な隧道が一部とはいえ残されており、中津市しもげ商工会も日田往還を観光資源として生かしていくつもりのようであり、また隧道愛にあふれる大分県民のことだから、これからも保存されていくことと思われる。
内部は、先述のとおり小型トラックぐらいなら通せるくらいの断面となっており、長鑿の跡が見られる(火薬を使ったということだ。)ことから文化年間そのままということはさすがにありえない。

しかし、このまま現トンネルのコンクリート壁の向こうに続いていたとするのなら、長さといい見通しが悪いなんてものではない。同じように明治時代に拡幅工事を受けている青の洞門と同様の観光資源にもなりえたほどのものであったように思われる。
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位置
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